名曲名盤縁起で2月2日に取り上げたが、25歳年齢差があり、生きた年月もほとんど等しく、LPレコード時代を迎えて世を去ったクライスラーと、CD時代に踏み入ったところで世を去ったハイフェッツは、SPレコード時代にともに大きな評判を得た。ウィーン生まれのクライスラーが、ナチス・ドイツを避けてアメリカで活躍した時代、ロシア生まれの天才ハイフェッツもアメリカで全盛を誇っていた。2大巨匠並び立たずだったのか、ハイフェッツが弾いたクライスラーの演奏は、何故か皆無に近い。
20世紀前半の僅かな期間に、ヴァイオリニストの演奏スタイルが急激に変化した。
クライスラーとハイフェッツの大きな違いはヴィブラートの使い方だ。ベルリンの演奏会にエフレム・ジンバリストと共に偶然居合わせたフリッツ・クライスラーが、まだ13歳のハイフェッツの演奏を聴き「私も君も、これ(ヴァイオリン)を叩き割ってしまった方がよさそうだ」、「私の究極の到達点をスタートラインにして、無限に記録を伸ばした天才」と評価したエピソードも残っている。
現代ヴァイオリン演奏法は、イザイに始まりますが今日、ヴァイオリン演奏には不可欠の技法として定着している、このヴィブラートの使用は、イザイ以前は、それほど表だったものではなかったのです。そして、イザイを更に発展させて、絶えず濃厚なヴィブラートをかけるクライスラーの手法は、当時においては、まさに革新的なものでした。
いわく「旋律線において重要だと思われる音にだけ、この特殊な表現の付加物、即ちヴィブラートをかけたヨアヒムやサラサーテの時代は一体何処へ行ったのだろうか。クライスラーは、明らかに最も無味乾燥と思われるパッセージにさえ魂を入れるという原則を、ある種のヴィブラートによって擁護するのである。そして、このヴィブラートは、本来の音と離れがたい統一体に融合されるのである。」とクライスラーならではの個性であると賛美しながらも、別な箇所で、ヴィブラートは、「必ず高められた表現への欲求の結果としてのみ用いられなければならない」と、カール・フレッシュは一般論として念をおしています。
昨2016年10月に、ハイフェッツの《ハバネラ》の強靭な『黄金の音』に身震いさせられた、エルマン、クライスラー、メニューインのSP盤を蓄音機で聴き比べする鑑賞会を開いた時、クライスラーの「中国の太鼓」のSPレコードを聴いて思うのが、高速な演奏でしたが、速いパッセージに余りヴィヴラートを掛けていないし、緩やかな部分でもっとヴィヴラートをかけて歌わせることだって、晩年の録音とは違って無理のないことだったでしょう。
クライスラー曰く「私自身についていえば、何を弾いても、あるいはまた弾けないものでも、それを楽しむことにしています。」と。また、クライスラー曰く「私が信頼できる唯一の批評的判断は脊柱のくだす判断です。私自身の演奏であれ他人の演奏であれ、私は自分の背筋に戦慄をおぼえたとき、それを良い演奏だと判定するわけです。批評家たちが何と言おうと、それ以上に良い鑑定法はありません。」と。
前言はハイフェッツも同じでしょうが、“天才ハイフェッツ”はアメリカで全盛を誇っていた。テレビに、映画に出演し、一日何回も演奏会を開いていた。聴きに駆けつける聴衆はひっきりなしで、演奏会場にはより大きな規模が求められた。極限状態にあったハイフェッツと、クライスラーの違いはブルジョワジーの関わりが大きい。
ハイフェッツが正確なヴィヴラートを盛大に披露すれば、伴奏する管弦楽団もヴィヴラートを使うようになる。サラサーテの《チゴイネルワイゼン》をSPレコード時代、モノラルLPレコード、ステレオLPレコードで聴き比べることが出来る。クライスラーはSPレコードに2度、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を録音している。それから変化を聞き取ることも出来ようが、ランドン・ロナルド指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団は平易だ。そして、ハイフェッツ登場以降、ヴィヴラートはオーケストラ演奏の典型になり、私たちは今それを当たり前に聞いている。
その違いの理由として録音が良くなったこともあるだろう。クライスラーの最初の録音は機械式録音で、管弦楽団の演奏家たちはマイクの前を行ったり来たりすることに懸命だったろう。それが格段に高性能になって、シカゴ交響楽団時代のショルティの録音となり、カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のレコードで急激に確立していったと言って良いだろう。演奏スタイルが拡大していった、管弦楽団の演奏家すべてがヴィヴラートをよく使った完成形にあるのがカラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のバッハのレコードに良く現れている。
サラサーテが演奏家としての活動を始めたのは1860年代のパリですが、最初に仲良くなったのは、新進ピアニストとして売り出し中のサン=サーンスでした。彼は名曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」をサラサーテに捧げ、1865年には二人でデュオを組んで演奏旅行をしました。1870年代前半にはラロがサラサーテの魅力の虜となり、ヴァイオリン協奏曲第1番(1873)と、「スペイン交響曲」(1874)を彼のために書き上げます。1870年代後半ドイツにも演奏旅行をするようになると、ドイツの作曲家ブルッフがヴァイオリン協奏曲第2番(1877)と「スコットランド幻想曲」(1879〜80)を捧げ、ブラームスもサラサーテの妙技に感銘して ― 実際に完成した作品は友人の名バイオリニスト、ヨアヒムに献呈されましたが ― ヴァイオリン協奏曲の構想を練り始めます。そして1880年には再びサン=サーンスがサラサーテのために、やはり名曲のヴァイオリン協奏曲第3番を書いています。
“パガニーニの再来”とまでいわれた19世紀最大のヴァイオリニスト。10歳のときスペインのイザベラ女王の前で演奏を行なって神童ぶりを発揮した。パリ音楽院に入ってさらに磨きをかけ、15歳で優等賞を得て卒業。その後は、独奏家として立った。彼の演奏は、純粋な様式間に裏打ちされた魅惑的な音楽の作り方と、音色の美しさ、輝かしさと柔軟性、技巧の卓越に特色があったと言われる。
彼の神技によって霊感を受けたラロ、ブルッフ、サン=サーンスら一流の作曲家が、彼に「ヴァイオリン協奏曲」を捧げているが、彼自身もみずから演奏するために「チゴイネルワイゼン」、「ハバネラ」、「アンダルーシアのロマンス」、「カルメン幻想曲」などの名曲を残している。
「ツィゴイネルワイゼン」の自作自演などが録音に残されていますが、途中がごっそりカットされ、最後も「収録時間に入りきらない」という録音技師の声に急かされて物凄い速度で弾き切っており、そのテクニックはすごい!、機械式録音の時代でやむを得ず、バックハウスの世界初の協奏曲録音だったグリーグのピアノ協奏曲は、3分間に縮尺された2枚のレコードだったという時代で、サラサーテの演奏の真価を判断できる代物ではないのが残念です。