お伽噺の主人公たちも来賓として居合わせる華やかなダンスと婚礼の儀式◉長靴をはいた猫と白い猫〜第222回、きらクラDON
第222回きらクラDONはニャンニャンニャンで「眠りの森の美女」から「パ・ド・カラクテール〜長靴をはいた猫と白い猫」だ。
あるところに3人兄弟があって父の死後、長男は水車小屋をもらい、次男はロバをもらい、3男に残されたのは猫だけだった。ところがその猫が『わたしに長靴と袋をください。そうすれば坊っちゃんに幸福が来るようにしてあげます。』といった。少年は猫の言葉を素直に信じて、自分の長靴と袋を与えた。猫は早速長靴を履いて、袋にごちそうを詰めると、それを担いで何処かへ出かけていった。
猫は野原で、その袋を投げ出し草原に寝転んで眠ったふりをしていた。そこへうさぎの親子がやってきて袋のごちそうを見つけ、皆で中へ潜り込んだ。猫は「しめた!」とばかりに跳ね起きて袋の口を締めてしまった。猫はうさぎのはいった袋を担いで王様の宮殿へ行き『これはわたしの主人のカラバス侯爵から王様への献上品でございます』といった。王様は喜んでそれを受け取った。猫は次に森へ行って同じ方法で美しい小鳥を捕ってまたカラバス侯爵の贈り物だと言って王様にさし上げた。王様は上機嫌で『どうかカラバス侯爵によろしく』といった。そしてカラバス侯爵とはどういう人物だろうと好奇心を起こした。
ある日、王様がお姫様と馬車で遠出を楽しむことになった。その報を耳にすると、猫は主人のところへ飛び帰って『ご主人様、いいことを考えつきました。どうぞわたしの言うとおりにしてください。裸で川へはいって、じゃぶじゃぶやっていてください。』といった。猫を信じきっている少年は、言われたとおり川の中でじゃぶじゃぶ水をはねかしていると王様の馬車が近づいてきた。すると猫は往来へ飛び出していって、『助けてくれ!早く誰か助けてください!カラバス侯爵が溺れそうだ!』と叫んだ。王様が驚いてみると、大声で喚いているのはいつも贈り物を届ける猫だった。王様はすぐ家臣に命じて少年を救助させ、お城から立派な衣服を取り寄せて着させた。それで貧しい少年は、本当の侯爵のようになった。
『カラバス侯爵、さあわたしの馬車にお乗りなさい』と王様が言って、少年を立派な馬車に同乗させるのを見届けると猫は馬車の先回りをして、牧草を刈っている男たちに『もうじき王様がここをお通りになるんだ。それで王様が、この牧場は誰のものだと聞かれたら、お前たちはカラバス侯爵様のものでございますと答えるんだぞ、そう言わないとお前たちは後でひどい目にあうからな』と言い含めた。やがて馬車がやってきて、その広い素晴らしい牧場が王様の目にとまった。すると果たして王様は質問された。『この牧場の持ち主は誰だね』『はい、これはカラバス侯爵のものでございます』と草刈り人たちが答えた。王様は感心して『なかなか立派な牧場をお持ちですな』と少年に向かっていった。猫は次の麦畑で働いている人たちにも、同じことを王様に言わせた。
ところで、その広い麦畑は実は巨人の持ち物だった。猫はその足ですぐ巨人のところへ飛んでいった。『あなたはどんな大きな獣にでも化けられると聞きましたが、本当に象やライオンにも化けられますか』といった。巨人は胸を張って自慢した。『化けられるとも、ほら見ているがいい』というが早いか大きなライオンになって、ものすごい声で吠えた。すると震え上がった猫は、こわごわ『本当にあなたは凄いですね。僕は胸がドキドキしてしまった。でもネズミのような小さなものには化けられないでしょうね』といった。『ネズミにだってなれるさ、ほらこの通り』と言って巨人は小さなネズミなったので、猫はすかさず飛びついて食べてしまった。
ちょうどその時、王様の馬車が来たので猫は玄関へ飛んでいって、『王様ようこそおいでくださいました。これがカラバス侯爵の城でございます。さあどうぞ中へ入ってお休みください』といった。そんな風にして、粉屋の三男坊は長靴をはいた猫のおかげで、とうとう王様のお気に入りとなりお姫様と結婚して、めでたし、めでたしということになる。
詩人で童話作家のシャルル・ペロー(1628〜1703)はフランスのパリに伝えられてきたヨーロッパの何処かの国の民話を咀嚼して、物語の表情はいきいきとしている。巨人と猫の知恵比べはドイツ・オペラ好きが、フランス・オペラ好きは前半の展開にニヤリとするでしょう。
ペテルブルクの帝室マリンスキー劇場の監督官となったウセヴォロジュスキーは当時流行していたレオン・ミンクスなどのバレエ音楽に飽き足らなかった。そこで彼は「ペローの童話「眠りの森の美女」を台本として、ルイ14世のスタイルの宮廷バレエ風の作品を作って欲しい」とチャイコフスキーに依頼、チャイコフスキーはそれを了承しました。扱っている題材は「魔法使いの手によっていばらの城の中で100年間眠ることになったお姫様が、100年後に王子の愛の力で蘇り、王子と結婚する」ディズニーの漫画映画で親しまれるファンタジーな内容です。ペロー原作ということなのですが、同一の発想の作品はヨーロッパには沢山あり、グリム童話には「いばら姫」という名前で収録されています。「白雪姫」や「ニーベルングの指輪」にも似た部分があります。でも、この作品は童話的な側面以外にも、ルイ14世時代の絶対王政時代のフランスをオマージュする性格も持っています。平和的な雰囲気を持つこのバレエは、そのまま当時のロシア帝国に対する賛美ということも言えます。
全曲は序奏と29曲にのぼり、3時間近くかかる長大なものとなりました。演奏会用組曲, op.66a としてコンサートで演奏されることもあります。その場合、作曲者自身が選んだ、「序奏とリラの精」、「パ・ダクシオン~バラのアダージョ(第1幕)」、「長靴をはいた猫(第3幕)」、「パノラマ(第2幕)」、「ワルツ(第1幕)」の5曲が演奏されるのが普通です。
第3幕の結婚式のパーティにペローのお伽噺の主人公たちが来賓として登場、メルヘンチックを高めます。「長靴をはいた猫」や「白猫」、「青い鳥とフロリーネ姫」、「赤ずきんちゃんとおおかみ」、「親指小僧と人食い鬼」、「シンデレラ姫とフォーチュン王子」も居ますよ。
Peter Ilyich Tchaikovsky
(1840.6.7 〜 1893.11.6、ロシア)
鉱山技師の息子として生まれたが、母親の音楽好きを受け継いで、幼時から音に対する異常なまでの鋭さを示した。はじめ法律を修め官吏に成ったが、アントン・ルービンシュタインが開設した音楽学校に通い、役人生活を精算して音楽家に成った。26歳の時モスクワ音楽院の作曲家の教授に就任、同時に作曲活動を始めた。36歳の頃から、フォン・メック夫人から年金の提供を受けて作曲に専念、次々に代表的傑作を書いた。
彼はロシア的国民感情を西欧の伝統的手法によって表現し、ロシア音楽を世界的たらしめた。19世紀ロシア最大の作曲家である。
代表作には、交響曲の「第4」、「第5」および「第6番」《悲愴》、幻想的序曲「ロメオとジュリエット」、バレエ「白鳥の湖」、「ピアノ協奏曲第1番」、「ヴァイオリン協奏曲」、歌劇「エフゲニー・オネーギン」など。
憂愁の作曲家チャイコフスキー
チャイコフスキーは、面白い経歴の持ち主である。彼の父親は政府高官であり、自身も法律家になるために学び、法務省に勤めていた。しかし、21歳でロシア音楽院に入学し、23歳で法務省を辞職、1865年に卒業して、音楽家として歩み始めたのは1866年、なんと彼が26歳の時であった。
彼の音楽家としての最初の仕事は、モスクワ音楽院での教師で、はじめはとても貧しかったが、音楽院の校長であった、ニコライ・ルビンシテインの暖かい助けによって救われた。しかし、この頃から、生涯にわたって悩まされる鬱が始まる。そしてそれは結局妻との離婚にもつながるのだった。
彼の特殊さは女性関係にも表れている。内気で女性恐怖症のチャイコフスキーは37歳で結婚したが、アントニーナ・ミリュコーヴァには「愛と肉体関係はないと考えてほしい」と断ってからのプロポーズであった。そして、ハネムーンの後80日(実際に暮らしたのは30日間)で結婚生活は終わりを告げた。妻もまた不安定な精神の持ち主であり、離婚後も手紙などで彼を苦しめた。
この結婚生活と同じ頃、チャイコフスキーはフォン・メック夫人というパトロンを見つけた。彼女とはその後14年間にわたって付き合いは続いた。この関係の面白いところは、2 人が現実に会わなかったところにある。多額の援助をしながらメック夫人は決してチャイコフスキーに会おうとはしなかった。例えば、彼女の近くに彼が住んでいた際は、偶然出会うことを避けるため、外出時間を手紙で知らせているという徹底ぶりであった。
ピョートル・チャイコフスキー 略歴
- 1840年
- ロシアで生まれる
- 1848年
- 学校でピアノを学び始める
- 1854年
- 母死去
- 1859年
- 法律学校卒業
- 1862年
- アントン・ルビンシテインの音楽学校入学
- 1866年
- モスクワ音楽院教師就任
- 1876年
- フォン・メック夫人と出会う
- 1877年
- アントニーナ・ミリュイコーヴァと結婚し、離婚する
- 1878年
- モスクワ音楽院を辞職
- 1890年
- フォン・メック夫人との別離
- 1893年
- チフスで死去
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