カラヤン&ベルリン・フィルと並び、20世紀におけるオーケストラ芸術の最高峰と称えられるユージン・オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団。
ストコフスキーの跡目を継いで、フィラデルフィア管弦楽団の首席指揮者・音楽監督を1938〜1980年の永きにわたって努めたオーマンディは、その主要な活動時期がカラヤン、バーンスタインの2大スターと重なり、かつアメリカでもミュンシュ、ライナー、セルらの強力なライヴァルの存在もあって埋没しがちであったが、その驚異的なレパートリーの広さと楽団の彫琢した美音とともに「異能」の名匠であった。分厚くしなやかな弦を土台に、管楽器・金管楽器に名だたる名手を配することで生み出された「華麗なるフィラデルフィア・サウンド」は、ほぼ半世紀にわたって世界中の音楽ファンを魅了してきた。
「私は新しい楽器を発見したのだ」とオーマンディは昔を思い出して言う。「それはヴァイオリンよりも豊かで精密な楽器 ― つまりオーケストラだ。」彼は、その他ラジオも発見して、その最初の重要なマエストロの一人になった。次第にアメリカのオーケストラ界は彼のために道を開きはじめ、ついに1931年彼に最初の大きなチャンスが訪れた。急病のトスカニーニに代わって、彼がフィラデルフィア管弦楽団を指揮することを頼まれたのである。彼の友人の多くは世界最高の指揮者の代役は損があっても得はないから、そんな危険を犯して経歴を傷つけることはやめろと忠告した。しかし、オーマンディは大きな賭けをした ― その結果、彼はすぐさまミネアポリス交響楽団の音楽監督に任命された。そして数年後、フィラデルフィアに呼び戻されれて、永久不動の地位を確保したのである。
ユージン・オーマンディは指揮者の楽屋からステージまでの、あの長い道を往復するたびに「この演奏に自分の全生涯がかかっているのだ」という気持ちを、いつも忘れなかったそうである。この責任感こそ ― ハリソン・フォード主演のアメリカ映画「今ここにある危機」の中で、「ジャック・ライアン... いいか忘れるな... おまえのボスは大統領ではないぞ、国民のために平和を守ると誓ったはずだ」というセリフに似て、それは彼自身だけではなく、オーケストラと聴衆に対するものであるが ― オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団が40年間も一緒に演奏しながらオーケストラ界で長く最も優れたコンビと認められている最大の理由のひとつである。
その最高水準のコンビを維持する秘訣を問われて『それは仕事だ』と、オーマンディはいつも決まって簡潔に答えていた。仕事はモラルを高揚させ、仕事をすることで心を慰められる。オーマンディにとっては、仕事は純粋な嫌悪感をさえ覚えるほどの楽しみなのだ。彼はその楽しみに溺れ、その楽しみを誇りとする。「ともかくオーケストラの向上するのは遅いが、低下するのは速い。」と言う、オーマンディの最大の誇りが、フィラデルフィア管弦楽団が常に最高水準を保っていることだった。
オーマンディの名は、やがて忘れられると思う。ナチス・ドイツでヒットラーが政権をとったことが引き金にあるが、ライナー、セル、オーマンディ、ショルティはアメリカで成功を収める。抜群の耳と統率力の持ち主で、仮借ない完全主義者らは音楽新興国アメリカで戦後、瞠目に値する成功を収め得たのは共通してハンガリー出身者であること。もともとハンガリーは700年続いたハプスブルク帝国の中核国家のひとつで、オーストリア=ハンガリー二重帝国の一方の雄でもあった。フルトヴェングラーの前任者で、ベルリン・フィルを世界一に育てた功労者のアルトゥール・ニキシュの出自もハンガリーである。
国家の統一が19世紀末まで成されていなかったドイツなどとは、文化の底力が段違いだったハンガリーを故郷とする指揮者たちは揃って、「徹底した独裁型」、「楽員に反論の余地を与えない抜群の耳の持ち主」であったこと、それを具現化する指揮法をマスターしていたことが〈実務能力〉として買われた。ドヴォルザークを国民音楽院の初代校長として招聘したエピソードは知られるところだが、多民族国家であり、加えて第2次大戦の戦中、戦後は亡命音楽家の溜まり場であったアメリカで、指揮者は一から十まで自分の音楽を指示し、それを忠実に実行せしめる強烈な存在として君臨して、職を求める雑多な亡命音楽家たちを恐怖の鞭を以って統率し、アメリカのオーケストラ・サウンドを創造した。その音楽を時のアメリカ人評論家らが褒め、聴衆は喜び、テレビ映画〈刑事コロンボ〉でコロンボ警部が自慢するセリフで「クラシック音楽のコレクションを持っています」とある通り、レコードは売れた。音楽は所詮ビジネスである。
一方、同時期にバルビローリ、クーベリック、マルティノンなどはオーケストラとの共同作業で味のある音楽を造ろうと試みて、音楽の歴史と伝統の欠如している国で苦渋に満ちた歳月を過ごしたうえ、お役御免の憂き目を被っている。
ストコフスキーから受け継いだと思われる〈フィラデルフィアの音〉に対するオーマンディのアプローチが、これまた特徴的である。長年彼は誰からも、どんな批判も受けないように気を使いながら、〈フィラデルフィアの音〉を守ってきた。ところがひとたび時至ると見るや、彼は静かに思慮深く次のような意見を公表した。
フィラデルフィア・サウンドなどというものはどこにもない。あるのは指揮者の音だけだ。私が外国で客演指揮すると、よくこういう批評を聞く。まるでフィラデルフィア管弦楽団みたいな音でしたね。私にとってこれ以上の褒め言葉はない。オーケストラに、そのオーケストラだけの独特の音があるというのは、全く嘘だ。あるのは只そのオーケストラの前に立っている指揮者の音だけだ ― 勿論、それには指揮者が自分の意図をよく知っており、オーケストラもまたそれに応じて変容する意志があるということが必要条件だ。音は個性に応じて、どのようにでも変化できるものだ。だから音は指揮者の個性を表現しなければならない。例えばクレンペラーがフィラデルフィアで指揮をした時、フィラデルフィア管弦楽団はまるでロンドンのフィルハーモニア管弦楽団のように響いた。クレンペラーが一番馴染んでいるオーケストラは、フィルハーモニア管弦楽団だったからだ。ストコフスキーの音はたいへん輝かしいものだった。私はフィラデルフィア管弦楽団にその音を残した上に、さらに私が子供の頃から親しんで来た古典的な音を付け加えたいと望んだ。そしてどうやら私の音が出来上がったというわけだ。
オーマンディがレオポルド・ストコフスキーから受け継いだフィラデルフィア管弦楽団は、すでにシンフォニー・オーケストラが到達できる理想に近いものと認められていた。ところが、このオーケストラは、それ以上の優れたものになっている。そのことはオーマンディの才能を余すところなく証明するものである。著名な〈フィラデルフィア・サウンド〉は彼によってますます高められ、その結果アンサンブル全体が永年艶出しをされた先祖伝来のマホガニー製の家具のように、美しい深みのある輝きを見せるようになった。
オーマンディと天下の銘器。
かつて『フィラデルフィア管弦楽団という天下の銘器は、ストコフスキーによってつくられ、オーマンディによってかき鳴らされる」といわれたものだ。この言葉は、オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団との関係を巧みに言い当てたものといってよい。
フィラデルフィア管弦楽団は、120年近い歴史を持つアメリカ有数のオーケストラであるが、世間の注目を集めるようになったのは3代目の常任指揮者、レオポルド・ストコフスキーの時代 ― 1913年から1936年までの23年間である。彼は、その在任期間中、世界中から優秀なプレイヤーを集め、厳格な訓練を施して、こんにちのこのオーケストラの屋台骨を築き上げた。
そのストコフスキーのメガネにかなったのが当時、ブダペスト国立音楽院ヴァイオリン科教授の地位を捨てて渡米、指揮活動をしていたオーマンディであった。それから実に40年の長きに渡って、彼はこのオーケストラの常任指揮者の地位を保ち続けている。ひと口に40年というが、これは大変なことである。彼が凡庸な指揮者だったとしたら、とてもこのような長期間に渡って黄金の椅子を温めていることは出来なかったろう。如何にオーマンディの実力が秀抜であるかを如実に示したものといってよい。
彼が、このフィラデルフィア管弦楽団という名人オーケストラの楽員たちを心服させ、その地位を揺るぎないものとしている秘密は何なのであろうか。それは彼の優れたオーケストラ統率力であり、巨匠的な風格である。オーケストラの体質のせいもあるが、彼の表現はいつもスマートで、その色彩は豊艶だ。あたかも絵の具をチューブから直接カンバスに塗りたくったかのように、そのひとつひとつの音は原色のような美しい輝きを持っている、“フィラデルフィア・サウンド”といわれる、あの独特なトーン・カラーである。
来日を重ねるたびにオーマンディは、これまでどのオーケストラからも聴くことの出来なかったような華麗な音色と技術的な完璧さ、それに風圧を感じさせるような圧倒的な音量をもって作品を演奏し、我々を魅了した。このコンビはオーケストラの醍醐味を満喫させてくれる最右翼といってよかろう。かてて加えて、そのレパートリーの広さと作品をまとめ上げる腕前の確かさ。そうした特色は、このレコードの演奏からも充分にうかがい知ることができよう。
オーマンディは1899年、イェーネ・ブラウという名でブダペストに生まれた。父は歯科医でアマチュアのヴァイオリニストで、地元出身の大ヴァイオリニスト、イェーネ・フバイにあやかって息子をイェーネと名付けた。彼の手ほどきでヴァイオリンをはじめたイェーネはめきめきと腕を上げ、5歳でブダペスト王立音楽院に入学、9歳のときにはフバイに師事した。
その後、ソリストとしての活動、フバイに代わっての母校での教授職を経て1921年にアメリカに移住、名前もユージン・オーマンディと改めた。ところがオーマンディは当時全米に吹き荒れていたハイフェッツ大旋風を目の当たりにし、ソリストの道を潔く断念、ニューヨークのキャピトル劇場オーケストラに入団した。間もなく彼はそこでコンサート・マスターに抜擢されるが、このポストはつまり、〈いつでも指揮者の代役をする〉というものだった。
1924年のある日の午後、開演15分前に指揮者が病気で出演不能の連絡があり、オーマンディには「君が指揮をするべきだ」というメッセージが渡された。曲目は彼がブダペスト時代に一度だけ演奏したことのあるチャイコフスキーの「交響曲第4番」だったが、彼はその遠い記憶を辿り、一箇所も間違えることなく指揮を終えたのである。かくして、指揮者オーマンディが誕生した。1931年、彼はミネアポリスに赴くが月曜日に到着した彼は次の水曜日には早くも同地のオーケストラ ― 現在のミネソタ管弦楽団の指揮者就任の契約書を手にした。そして38年、ストコフスキー、ラフマニノフ、クライスラーらの音楽家が〈彼しかいない〉と後押しをし、オーマンディは名門フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任するのである。以来、このコンビは40年以上も続き、両者の作り出す華麗、豪華な響きも“フィラデルフィア・サウンド”という代名詞で広く知られるものとなる。
この録音に聴くフィラデルフィア管弦楽団は、まだ後のようには油ぎったサウンドではない。やや肉付きが良くなったとはいえ、まだストコフスキー時代の特徴が色濃い。この後ステレオ期になっていくと急速にオーマンディのイニシアチブが感じられるようになるが、これは楽員の交代や録音方式の変化など様々な理由の為だろう。1970年代の円熟の“フィラデルフィア・サウンド”も素晴らしいし、1960年代の全盛を誇ったゴージャズなサウンドも良いのだが、未だストコフスキー時代のノーブルカラーが残る、この時代のオーケストラが一番好きだ。