名曲名盤縁起 ゲーテの詩に書かれた不滅のドイツ歌曲◉シューベルト〜歌曲《野ばら》

武者がえし

2020年03月22日 00:45

大詩人ゲーテ没 ― 1832年3月22日

 ドイツの詩人で作家のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749〜1832)が他界した日である。クラシックの歌曲に詩を提供した詩人は数多くいるが、『若きヴェルテルの悩み』で脚光を浴びたゲーテは、詩才にも優れ、名歌曲が生まれるとき、母のような役割を果たした。

 ゲーテの詩に多くの音楽を付けたのがシューベルトである。ゲーテ=シューベルト作品は《魔王》《憩いのない愛》《ミューズの子》など、リート(ドイツ語歌曲)の宝庫。なかでも《野ばら》は世界中で民謡のように歌われている彼らの永遠のヒット曲だ。
近藤朔風の日本語詩は「 童は見たり、野なかの薔薇、清らに咲ける、その色愛でつ、飽かずながむ、紅におう、野なかの薔薇」であるが、原詩は、男の子がばらを乱暴に扱い、ばらは男の子をとげで刺すが、結局折られてしまうという内容。男の子の乱暴な行いに対するばらの抵抗を描いた歌である。

ゲーテの詩『野ばら』(Heidenröslein)

 1799年に出版されたゲーテの詩に、曲をつけたシューベルトの歌曲。D257。ゲーテが1771年にシュトラースブルク(ストラスブール)に滞在していた時に書かれたもので、フリーデリケ・ブリョンに恋をし、彼女に贈られたものである。“Sah ein Knab' ein Röslein stehn”(男の子が野に咲く薔薇を見つけました)と意味深で始まる、この詩は傑作と評価されており、シューベルトとハインリッヒ・ヴェルナーの歌曲が有名だがベートーヴェン、シューマン、ブラームスをはじめとした多くの作曲家によって、この詩に曲が付けられている。

Sah ein Knab' ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden,
War so jung und morgenschön,
Lief er schnell, es nah zu sehn,
Sah's mit vielen Freuden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
Knabe sprach: ich breche dich,
Röslein auf der Heiden!
Röslein sprach: ich steche dich,
Dass du ewig denkst an mich,
Und ich will's nicht leiden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
Und der wilde Knabe brach
's Röslein auf der Heiden;
Röslein wehrte sich und stach,
Half ihm doch kein Weh und Ach,
Musst' es eben leiden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

Franz Peter Schubert

(1797.1.31 - 1828.11.19 オーストリア)

生粋のウィーン生まれの大作曲家。“ドイツ歌曲の王”と言われている。小学校長を父とし、12歳でコンヴィクトという神学校に入学、教会で歌った他、音楽教育を受けた。17歳で名作「糸を紡ぐグレートヒェン」を作曲、翌年には「野ばら」「魔王」など145曲の歌曲を書き、31歳の若さで死にまでの間に600曲以上の歌曲を残した。歌曲の代表作は“3大歌曲集”と称される「美しい水車屋の娘」、「冬の旅」、「白鳥の歌」のほか「ます」、「死と乙女」、「音楽に寄す」、「アヴェ・マリア」などがあげられる。シューベルトはこのように歌曲によるドイツ歌曲の系譜における有力な主流となり、初期ドイツ・ロマン主義の確立に功績を残したが、器楽においてもその旋律の美しさと叙情性において独特の境地を開拓した。

 シューベルトは遅れてきた古典派であり、ロマン派の先駆けとなった。実は古典派とロマン派の定義であるが、明確な定義があるわけではない。あえて定義するなら、古典派は『秩序と安定を目指し(音楽で言うならソナタなどの形式を重視し)、しっかりとした構造を持った音楽を作り上げる事を目的としている』。それに対し、ロマン派はそれらからの脱却を試みたと言える。

 ロマン派の作曲家たちはソナタなどの形式的な音楽も作曲したものの、型にとらわれない自由な音楽も多く作っている。また、人間的にもロマン主義は、それまでの社会への反乱や抵抗を表し、貧乏でなければならなかった。例えば貴族などの階級に対する市民や、ブルジョワの台等があげられる。この点で、シューベルトはロマン主義を代表する人物と言える。

 彼は、それまでの作曲家と異なり、31年の人生の中で、ほとんど1度も安定した生活をすることがなかった。彼に対して様々な人が援助を申し出たが、彼はそれにすら反発し、生涯貧困の中で生活した。死の時も数10万円しか遺産を残さなかった。性格は人見知りで、仲間以内ではほとんど騒ぐようなことも無かった。また、自らの曲を周囲に認めさせ、高い金で売りつけようとする世渡りもできなかった。彼には、友人たちと楽しい時間を過ごせればいいという、楽観的な部分もあったようだ。当時多くの市民がその生き方と音楽に共感を覚えたのである。


フランツ・シューベルト 略歴

1797年
ウィーン郊外で生まれる
1803年
兄からピアノを、父からヴァイオリンを学び始める
1810年
初めての作曲
1812年
サリエリにレッスンを受ける
1814年
父の学校の教員になる
1827年
ベートーヴェンを見舞う
1828年
死去
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