名曲名盤縁起 交響曲の新しい世界への扉を開いた会心の問題作 交響曲第3番《英雄》より第1楽章
《英雄交響曲》初演 ― 1805年4月7日
「3月20日」のベートーヴェンの命日にも取り上げた《英雄交響曲》は、1805年の今日、ウィーンで ― 劇場指揮者F.クレメント主催の公開演奏会で作曲者自身の指揮で初演された。『英雄』はナポレオンを賛美するために作曲され、彼が皇帝に即位するとベートーヴェンは激怒のあまり献辞が書かれた表紙を破り捨てたというエピソードが有名な交響曲の傑作。《ワルトシュタイン・ソナタ》のほかに、この年に完成された作品は意外に少ない。(欠落)3番目の交響曲は、真にベートーヴェン的作風が確立され、後のロマン派音楽の爆発を促したような傑作なのだが、当時としては異例づくしの問題作だった。
何よりも演奏時間が長すぎる ― 50分。書法が複雑怪奇、凶暴な不協和音もあるため聴衆は“交響曲の怪物”を見聞きしたような不機嫌な気分に陥ったという。
ベートーヴェン自身も長さは心配したらしく楽譜を出版したとき、「最後に演奏されるとすでに聴衆がくたびれてしまっていて、この曲の効果が失われてしまうから」と懸念して、「最初のほうでやってほしい」とのお願いを記した。
第1楽章も20分近くかかるが、冒頭のチェロによる“英雄の主題”から雄大な締めくくりまで、耳が飽きることはない。そして、緊張感みなぎる「葬送行進曲」へと続いていく。
ところで、なぜ「英雄」交響曲の第2楽章が「葬送行進曲」であるのかということについては、当時よりさまざまな推測がなされてきた。死してなお後世までその名を語り継がれてこその「英雄」であるからなのか?
あるいは、後続の楽章を「死」からの「復活」として表現したかったのか?
さらには、ベートーヴェン自身の、過去を清算し新たに生まれ変わることの決意とみる向きもある。
第3楽章では、典雅なメヌエットにかわり無窮動的な運動の中から主題が浮かび上がるスケルツォと、ホルンの三重奏を中心とする狩や戦いの開始を告げるかのようなトリオで構成される。終楽章は、一陣の突風を思わせる序奏に引き続き、ちょっと謎めいた動機 ― (欠落)が提示され2回の変奏が行われた後、本来の旋律主題を後になって登場させるという斬新な形式の変奏曲なのである。
ベートーヴェンはこの作品の第4楽章に、1801年に初演されたバレエ音楽《プロメテウスの創造物》の旋律を取り入れています。(欠落)彼がヨーロッパの啓蒙主義の象徴として、人間に光をもたらしたとされる古代の女神プロメテウスを用いているのは決して偶然ではありません。(欠落)かのゲーテが後に語ったところによると、ナポレオンは人びとに「光、つまり道徳的な啓蒙も」もたらした ― ベートーヴェンが当初、この交響曲をナポレオンに捧げようとしていたエピソードはよく知られています。
(欠落)※2018年4月7日午後に追記した箇所ですが、消えていました。サーバー側でデータをロールバックしたようです。追記した部分はわかっていますが、同じことを再度書く趣味はないのでそのまま先を進めます。
(欠落)※次の機会に追記します。1806年10月に美術工芸社からパート譜で初演出版され、ロブコヴィツ候に献呈された。この楽譜の出版に際して、《シンフォニア・エロイカ》と題名が改められ、「ひとりの偉大な人間の思い出を記念して」と付記されている。このときはじめて現在まで我々が親しんでいる「英雄」の副題が登場することになる。人類に叡智をもたらしたギリシア神話の神「プロメテウス」に共感したのか。あるいはまた、人生最大の危機を克服し、新たな音楽家としての蘇生を自覚したベートーヴェンが自らの姿を客観視して重ね合わせたかもしれない。
Ludwig van Beethoven
古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆け
(1770.12.16 〜 1827.3.26、ドイツ)
ボンの宮廷楽団の歌手を父として生まれた。ハイドンにその非凡な才能を見出され、22歳の時ウィーンに出て、ピアニストとして音楽活動を始め、後に作曲に転向した。しかし、次第に聴力を失い、30歳代の半ばには完全な
聾となり、絶望のあまり死を決意したこともあったが、人類のために作曲することは神に与えられた使命であると考え、その危機を克服した。この時を境に創作態度は一変し、彼は作品の中に人間的、精神的な内容を盛り込むようになった。
彼の特徴の最もよく現れているのは、9つの交響曲だが、「ピアノ協奏曲」5曲、「ヴァイオリン協奏曲」、「ピアノ・ソナタ」32曲、「弦楽四重奏曲」17曲、「ヴァイオリン・ソナタ」10曲、「チェロ・ソナタ」5曲、また歌劇「フィデリオ」や「荘厳ミサ曲」など、いずれも傑作である。
楽聖ベートーヴェン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンという名前は、特にクラシック音楽に興味が無い人でも馴染みがある。そして、その人物像に関しては気難しく癇癪もちで、年中お金に困っていて難聴に負けなかった偉大な作曲家だった印象が一般的だろう。しかし、ここには多くの間違いがある。
まず、ベートーヴェンは櫛を入れない髪で、着衣に無頓着だった奇人であったという伝説で楽聖ぶりを強調されるが、常識を弁え、そうではなかったらしい。親交の深かったブロイニング家をはじめとする貴族たちと付き合うときは、気品のある衣装を着てとても注意深く振舞っていた、という記録が残っている。
ただ、貴族社会に馴染み、受け入れられていくほどに、彼の心の中では逆に貴族の生活が嫌らしく思えてきて、彼らの興味の対象である服装などが馬鹿らしく見えたのも事実であろう。
また、ベートーヴェンは非常に先見ある音楽家であった。代表的なのが「交響曲第9番合唱付き」ですが、当時では交響曲に合唱を入れるというのは異例のことで、一般人からも演奏者からも理解されなかった。リハーサルで多くの歌手たちが初演の前まで、「あまりに器楽的すぎて歌うことが出来ない」と文句を言って来たが、ベートーヴェンは解しなかった。チャイコフスキーとの違いだ。音楽として奏でられると、而して初演は大成功となり多くの批判した者はベートーヴェンに謝罪の言葉を送ったという。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 略歴
- 1770年
- ドイツのボンで生まれる
- 1776年
- 父からピアノを学び始める
- 1778年
- ケルンでピアニストデビュー
- 1785年
- 宮廷オルガニストとなる
- 1787年
- ウィーンへ旅行し、モーツァルトを訪ねる
- 1792年
- ハイドンに弟子入り
- 1801年
- 難聴が始まる、サリエリに師事
- 1819年
- 難聴がひどくなる
- 1827年
- 死去
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