おそらくブラームスは《第1番》の作曲の過程で次の、この作品の構想を抱いていたと思われ、9月24日付でクララ・シューマンが指揮者のヘルマン・レヴィに宛てた手紙には、「ブラームスは少なくとも頭の中ではニ長調の新しい交響曲は出来上がっていて、第1楽章を書きとめたところだ」と記されている。
友人の批評家ハンスリックに宛てて「ヴェルター湖は処女のような土壌だよ。そこではメロディーが飛び交い、踏みつけないように用心する必要があるほどだよ」と書いているように、ブラームスは美しい自然に抱かれて解き放たれたように美しい旋律を書き続けることができたのである。しかし完成は秋に持ち越された。ペルチャッハに続いて9月17日から同月末まで過ごした南ドイツの保養地バーデンバーデン近郊リヒテンタールで作曲を進めた。この地はブラームスとクララ・シューマンが好んで滞在した所でもあり、この時も出会いがあった。10月3日に、第1楽章と第4楽章の一部を彼はクララに弾いて聴かせており、この月に作品の全体が完成された。10月3日付のクララの日記には次のような記載がある。「ヨハネスが今晩やって来て彼の《第2交響曲ニ長調》の第1楽章を弾いてくれた。それは私を大いにうっとりとさせてくれるものだった。その楽章は創造性において《第1交響曲》の第1楽章よりも意義深いと思う。終楽章の一部も聴いた。私は喜びでいっぱいである。この交響曲によって彼は聴衆の前でも《第1番》以上の決定的な成功を得るだろう。音楽史もまた、その独創性と素晴らしい仕事によって魅了されるだろう」。
そして11月に入ると、この新作交響曲の4手ピアノ用編曲に取り掛かる。この作品ではシューベルトの作品からの影響が注目されており、とくに遺作の《ピアノ・ ソナタ変ロ長調》(D.960)とは、第1楽章の主題の動機や表現などの点で関連性が見られる。
ブラームスは10月3日に第1楽章と第4楽章の一部をクララの前で演奏しているが、作品の成立過程から見ると、第1楽章を完成する前に第2楽章と第3楽章 に着手し、第3楽章が完成する前に第4楽章が書かれ、4つの楽章は近接した時間の中で成立している。そのために第1楽章の動機が他の楽章でも用いられるなど、楽章相互の結びつきが強い。1877年11月22日、ブラームスの友人で、彼の作品の楽譜出版を手掛けるジムロックに
戯れを込めてこのように書き送る。「新作の交響曲はとてもメランコリックなもので、あなたには耐えられないほどだ。私はこれまでこれほど悲嘆的で柔和な作品を書いたことがない。スコアは死亡通知の黒枠をつけて出版しなければならない」。またアドルフ・シュブリンクには同年12月27日の手紙で、「あなたはこれまでこの作品以上の世界苦に
苛まれたものを聴いたことがない。全楽章ヘ短調だ」としたためて、悲劇的な作品である旨を予告する。これは彼一流の冗談で、《交響曲第1番》の荘重な作風とは対照的に、この新作の交響曲は自然の大気をいっぱいに吸い込んだニ長調の、のびやかな作品であり、この作品を聴いた人々は心からの共感と理解を寄せたのである。
鑑賞のポイント
クララの予想通り、12月3日、ウィーンでの初演は大成功を収めた。ところが翌1878年1月10日、ブラームス自身の指揮によるライプツィヒ、ゲヴァントハウスでの再演は失敗に終わった。落胆したブラームスは、1月13日、出版社ジムロックへの手紙では第1楽章を書き直そうかと提案している。幸いにしてその改作は行われず、私たちはこの美しい第1楽章をそのままの形で楽しむことができるのである。
第1楽章は序奏を持たず、チェロとコントラバスによる2度音程の動機に導かれて、低弦楽器のイ音の上にホルン、続いて木管楽器群が牧歌的で平明な分散和音および音階的な主題を奏する。その後、荘厳なトロンボーンの吹奏の後にティンパニが奏する遠雷を思わせる動機も印象的である。第1ヴァイオリンによって紡ぎ出される優しい旋律も、冒頭の2度音程の動機と関係しており、その後の楽章にも用いられて、この作品の統一性に貢献している。
第4楽章では、第1主題は冒頭から弦の斉奏で開始される。第2主題は、第1ヴァイオリンとヴィオラによって開始される大らかな賛歌として発展する。この主題は長いコーダにおいても中心素材として用いられ、このブラームスの「田園交響曲」を喜びに満ちて締めくくっている。
ブラームスは《交響曲第1番》においては、同じハ短調で書かれたベートーヴェンの交響曲第5番《運命》の超克を試みた。さらにこの《第2番》においてはベートーヴェンの第6番《田園》の世界を自分なりに発展させることを試みて、かつ成功したのである。