ドヴォルザークの郷愁 クラシック音楽マニアでもなく、音楽を生業としないでも誰もがよく知っている〜クラシック名曲ガイド
ドヴォルザークの郷愁
特別に音楽を熱愛し、音楽を研究すると理由でなく、卑しくも音楽に関心と興味をもっているだけでも可憐なヴァイオリン小品曲《ユモレスク》と、郷愁と哀歌に溢れた《新世界》はよく知っているだろう。その作曲者アントニン・ドヴォルザークは楽聖や、神童、天才とは無縁で、最も人間臭い存在としてチャイコフスキーやグリークと共に身近に感じられます。
ドヴォルザークの名を思い浮かべて、静かに眼を閉じると、わたしは《新世界交響曲》の第二楽章ラルゴに出てくる有名な『家路』の旋律が鮮明に聴こえる心地になるのです。アメリカ滞在中のドヴォルザークが黒人の祷りの歌から暗示を得たとも、遠く故郷ボヘミアの民謡を採りいれてホームシックを慰めたとも言われる、絶え入るばかりに哀れ深い調べながら美しく、だからといって天上から降り注ぐ旋律ではなく永劫の郷愁感に聴くものは涙せずにはすまされない。
ドヴォルザークの《アメリカ四重奏曲》《スラブ舞曲》《チェロ協奏曲》は優しい郷愁に彩られている。シューベルトやモーツァルトのような天才でなく、ベートーヴェンやワーグナーのような超人でなく、肩を並べあって人間愛やノスタルジーを共有しているようではないか。音楽鑑賞者は、その郷愁に聴き入って涙できるだけで良いのです。
CD45枚の人生。
Antonín Leopold Dvořák
(1841.9.8 〜 1904.5.1、チェコ)
あいつが屑籠に捨てたメロディーだけで交響曲を一曲書ける ― ブラームス
稀代のメロディー・メーカー ドヴォルザーク〜100人の大作曲家たち[46] 肉屋と宿屋を兼ねた家に長男として生まれた。首都プラハの音楽学校を卒業後、歌劇場でヴィオラを弾いていたが先輩の作曲家スメタナに見出され作曲を始めるようになった。やがてその作品がブラームスに認められて名声が上がり、1891年プラハ音楽院の作曲家教授に就任。翌年、ニューヨークの国民音楽院に校長として招聘された。3年間のアメリカ滞在中、ニグロの民族音楽とボヘミアの郷土音楽との融合をはかって傑作、交響曲《新世界より》を書いた。
彼はスメタナの遺産を受け継ぎ、この国の国民音楽を世界的にしたがドイツ音楽、ことにブラームスの影響を受け大規模な絶対音楽を多く書いた。器楽の面で名作が多く「交響曲第8番」,「チェロ協奏曲」,「スラブ舞曲」、弦楽四重奏曲「アメリカ」,それに「ユーモレスク」などが有名である。
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