名曲名盤縁起 交響曲の新しい世界への扉を開いた会心の問題作 交響曲第3番《英雄》より第1楽章
《英雄交響曲》初演 ― 1805年4月7日
「3月20日」のベートーヴェンの命日にも取り上げた《英雄交響曲》は、1805年の今日、ウィーンで ― 劇場指揮者F.クレメント主催の公開演奏会で作曲者自身の指揮で初演された。この3番目の交響曲は、真にベートーヴェン的作風が確立され、後のロマン派音楽の爆発を促したような傑作なのだが、当時としては異例づくしの問題作だった。
何よりも演奏時間が長すぎる ― 50分。書法が複雑怪奇、凶暴な不協和音もあるため聴衆は“交響曲の怪物”を見聞きしたような不機嫌な気分に陥ったという。ベートーヴェン自身も長さは心配したらしく楽譜を出版したとき、「最後に演奏されるとすでに聴衆がくたびれてしまっていて、この曲の効果が失われてしまうから」と懸念して、「最初のほうでやってほしい」とのお願いを記した。
第1楽章も20分近くかかるが、冒頭のチェロによる“英雄の主題”から雄大な締めくくりまで、耳が飽きることはない。そして、緊張感みなぎる「葬送行進曲」へと続いていく。
Ludwig van Beethoven
古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆け
(1770.12.16 〜 1827.3.26、ドイツ)
ボンの宮廷楽団の歌手を父として生まれた。ハイドンにその非凡な才能を見出され、22歳の時ウィーンに出て、ピアニストとして音楽活動を始め、後に作曲に転向した。しかし、次第に聴力を失い、30歳代の半ばには完全な
聾となり、絶望のあまり死を決意したこともあったが、人類のために作曲することは神に与えられた使命であると考え、その危機を克服した。この時を境に創作態度は一変し、彼は作品の中に人間的、精神的な内容を盛り込むようになった。
彼の特徴の最もよく現れているのは、9つの交響曲だが、「ピアノ協奏曲」5曲、「ヴァイオリン協奏曲」、「ピアノ・ソナタ」32曲、「弦楽四重奏曲」17曲、「ヴァイオリン・ソナタ」10曲、「チェロ・ソナタ」5曲、また歌劇「フィデリオ」や「荘厳ミサ曲」など、いずれも傑作である。
楽聖ベートーヴェン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンという名前は、特にクラシック音楽に興味が無い人でも馴染みがある。そして、その人物像に関しては気難しく癇癪もちで、年中お金に困っていて難聴に負けなかった偉大な作曲家だった印象が一般的だろう。しかし、ここには多くの間違いがある。
まず、ベートーヴェンは櫛を入れない髪で、着衣に無頓着だった奇人であったという伝説で楽聖ぶりを強調されるが、常識を弁え、そうではなかったらしい。親交の深かったブロイニング家をはじめとする貴族たちと付き合うときは、気品のある衣装を着てとても注意深く振舞っていた、という記録が残っている。
ただ、貴族社会に馴染み、受け入れられていくほどに、彼の心の中では逆に貴族の生活が嫌らしく思えてきて、彼らの興味の対象である服装などが馬鹿らしく見えたのも事実であろう。
また、ベートーヴェンは非常に先見ある音楽家であった。代表的なのが「交響曲第9番合唱付き」ですが、当時では交響曲に合唱を入れるというのは異例のことで、一般人からも演奏者からも理解されなかった。リハーサルで多くの歌手たちが初演の前まで、「あまりに器楽的すぎて歌うことが出来ない」と文句を言って来たが、ベートーヴェンは解しなかった。チャイコフスキーとの違いだ。音楽として奏でられると、而して初演は大成功となり多くの批判した者はベートーヴェンに謝罪の言葉を送ったという。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 略歴
- 1770年
- ドイツのボンで生まれる
- 1776年
- 父からピアノを学び始める
- 1778年
- ケルンでピアニストデビュー
- 1785年
- 宮廷オルガニストとなる
- 1787年
- ウィーンへ旅行し、モーツァルトを訪ねる
- 1792年
- ハイドンに弟子入り
- 1801年
- 難聴が始まる、サリエリに師事
- 1819年
- 難聴がひどくなる
- 1827年
- 死去
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