ウィーン国立歌劇場はドイツ敗戦直前の1945年3月12日に空襲で消失した。
戦中にナチス・ドイツから逃れて、ブルーノ・ワルターがいなくなった穴はクレメンス・クラウスやクナッパーツブッシュ、そしてフルトヴェングラーが埋めた。ときにヴォルフガング・シュナイダーハン、ボスコフスキー、ワルター・バリリが、ウィーン・フィルハーモニー史上最強のコンサートマスターのトリオだった。
オーストリアは1955年に占領下から独立するが、それと国立歌劇場の再建は同時だった。
ナチス・ドイツがポーランド侵攻した1939年に、ウィーンに生まれたワルター・ヴェラーは、17歳でウィーン・フィルに入団。わずか22歳でコンサートマスターに抜擢されると、11年にわたってその任務に就き、その間にヴェラー弦楽四重奏団を結成していた。
幸松肇は、ヴェラーを「ウィーン・フィル歴代のコンサート・マスターの中で、彼がいちばん腕達者だったのではないか」と評価する。しかし1969年、突如ウィーン・フィルのコンサートマスターの地位を捨てて指揮者としての道を歩むことになる。と同時に、ウィーン最高の弦楽四重奏団と呼ばれたヴェラー弦楽四重奏団も1971年に解散。おそらくウィーン・フィルのメンバーにとっても、そしていっしょに室内楽を奏でていた人にとっても、この転向は青天の霹靂。ひとりのヴァイオリニストの人生の選択が、ウィーンの音楽界にとってどれほど重い意味を持つものであったか。ヴェラーが指揮者となり室内楽を見捨てた悲劇は、ウィーンが本来持っていた室内楽の魅力を変質させ、ウィーンの室内楽全体の悲劇に直結してしまった。
ソリストの指揮者転向はよく聞く話である。しかしここまで音楽界に大きな影響を与えた「転向」は歴史として記憶にとどめておきたいトリビア向きの出来事だ。ウィーン音楽の伝統を生まれつき持ち合わせ、その未来をも託されていた歴史的な天才。周囲の期待を拒否してまで、それまでの生き方を彼はなぜに捨てたのか。
これは彼の代表作となる、1974年から1978年にかけて録音されたプロコフィエフ交響曲全集からの一枚。この全集は、アナログ完成期にセッションを組んで録音されたもので、ケネス・ウィルキンスン、ジョン・ダンカーリー、ジェイムズ・ロックというデッカの名エンジニアたちによって、重量感とシャープネスの両立したプロコフィエフ・サウンドを楽しむことができるのが大きな魅力ともなっています。制作当時、まだ30歳代後半だったヴェラーの指揮は実にエネルギッシュで推進力に富み、反応の良いオーケストラを指揮して切れ味抜群のプロコフィエフ演奏を展開しています。
1977年3月、4月ロンドン、キングズウェイ・ホールでのケネス・ウィルキンソンによるステレオ録音。