名曲名盤縁起 パガニーニが依頼したヴィオラ独奏付き交響曲 ベルリオーズ〜交響曲《イタリアのハロルド》より第3楽章
イギリスの詩人バイロンの命日 ― 1824年4月19日
イギリスのロマン派詩人で、夭折したジョージ・バイロン(1788〜1824)の命日である。バイロンは、ベルリオーズの交響曲《イタリアのハロルド》にアイディアを提供した詩人。
《幻想交響曲》を聴いて大感激したヴァイオリンの鬼才パガニーニから、自分が所持しているストラディヴァリウスのヴィオラを生かせるような曲を書いて欲しいと頼まれ、バイロンの出世作『チャイルド・ハロルドの巡礼』をもとに、独奏ヴィオラ付きという奇妙な交響曲として書かれた。
交響曲《イタリアのハロルド》
この曲は、実をいうと交響曲ではありません。ベルリオーズ自身のイタリア滞在の思い出を、4つの楽章に書き留めたものです。そして、ここにも彼の《幻想交響曲》における「固定楽想」に近いものが認められますが、それがハロルドという人物を体現しており、ハロルド役を「演じる」のは一貫して独奏ヴィオラ。劇的物語 《ファウストの劫罰》でもマルガリータの歌うアリアにヴィオラが伴っていましたから、むしろこちらと同系列といえます。一人物=一楽器という表現方法は、ウェーバーの歌劇《魔弾の射手》でも、脇役エンヒェンにヴィオラがあてがわれていますし、シューマン時代のひとつの流行でした。こうしたスタイルは、時下ってリヒャルト・シュトラウスの交響詩《ドン・キホーテ》では、チェ ロとヴィオラが、それぞれドン・キホーテとサンチョ・パンサを演じており、こちらを引き合いに出すのが理解されやすいかとも思います。
劇的物語 《ファウストの劫罰》と違って交響曲《イタリアのハロルド》は、セリフや劇を伴わない純粋なオーケストラ曲であるわけですがベルリオーズの音楽は非常に視覚的です。ハロルドは夢見がちな性格で、その意味でもファウストに似ています。たとえばヴェルディの歌劇《ドン・カルロ》に出てくるロドリーゴのような決然とした人物ではありません。そんな性格を表現するのに、ベルリオーズはヴァイオリンのような強いキャラクターをもつ楽器ではなく、この柔らかな響きのする楽器・ヴィオラが適していると考えたのです。文学的に構想されており、そもそもベルリオーズには、この曲をヴィオラが活躍する「協奏曲」に仕立てるつもりはありませんでした。
第1楽章が出来たところでスコアを見たパガニーニは、あまりにヴィオラが(=ハロルドを表す)の出番が少ないのでがっかりしたらしいが、ベルリオーズはそのまま最後まで「ヴィオラ付き」で書き進めた。その第3楽章「アプルッチの山人が、その愛人に寄せるセレナード」は、相変わらずヴィオラは刺身のツマのようだが、村人の素朴な踊りを見ながらハロルドが歌う愛のセレナードは、とても優美だ。
Louis Hector Berlioz
(1803.12.11 〜 1869.3.8、フランス)
革新的な管弦楽法。標題音楽の創案者
自由奔放な性格を持った最もロマン派的な作曲家。医者の家に生まれたため大学では医学を学んだが、途中で音楽学校に転校し、作曲の道を歩むようになる。27歳で大作「幻想交響曲」を作曲し、まもなくローマ大賞を獲得してローマに遊学した。「幻想交響曲」は、ベートーヴェンの死後数年を経ずして書かれたにもかかわらず、全曲を一貫する「固定概念」という新しい手法を編み出したり、また膨大な楽器編成による色彩豊かで革新的な管弦楽法は、リストその他のロマン派の作曲家たちに大きな影響を与えた。
序曲「ローマの謝肉祭」、「ファウストの劫罰」、歌劇「ベンベヌート・チェリーニ」などは特に有名。ほかに「管弦楽法」という著書も有る。
エクトル・ベルリオーズ 略歴
ベルリオーズは、1803年フランス南東部のラ・コート・サンタンドレで生まれた。彼の父親は医者で、恵まれた環境の中で育てられた。パリの大学で医学生として勉強していた彼は、次第に音楽に傾倒し、ついに父親の反対を押し切る形で、パリ音楽院に入学したのであった。
音楽家となった彼は、貧困生活を送りながら作曲活動をしていたが、生前は全くと言っていいほどフランスで評価されることは無かった。また、世界一のヴァイオリニストとして有名なパガニーニが彼にお金をくれたという逸話が残されている。現在の金額にして1000万円ほどとのことで、ベルリオーズはこれに感謝し、パガニーニに曲を献呈しているのだが、どうやらこれは、楽譜屋が楽譜を売るために作った作り話であったことが分かっている。
革新的な管弦楽法を展開し得たのは、当時パリに優れたオーケストラがあったことと関係している
《イタリアのハロルド》の場合、英国の詩人バイロン著『チャイルド・ハロルドの遍歴』にインスピレーションを得ていますが、それだけで作曲に至っただろうか。これほどの規模でヴィオラを独奏に用いるのは、珍しかったのではないでしょうか。ベルリオーズのもとにパガニーニがやってきて、良いヴィオラがあるから自分のために曲を書いてくれないかと頼んできた経緯があります。
それにベルリオーズが革新的な管弦楽法を展開し得たのは、当時パリに優れたオーケストラがあったことと関係しているのでしょう。オーケストラ・パートに、当時としては異例な弱音記号4つ、ppppが書き込まれています。
リストやショパンには、シューマンも実際に会っていますしフランスのベルリオーズについては、賞賛の評論文を書いています。そして、ベルリオーズとリストの間には親交がありました。シューマン以後において、音楽の中心地といえばパリです。ワーグナー、リスト、ショパンなど ― みなこの地と関係しました。それはドビュッシーやラヴェルを準備しただけではありません。文学なども含め、世界文化はパリという中心に向かっていったのです。
ブルックナーとシューマンは、いっけん無関係のようにもみえますが、シューマンの管弦楽法の射程はこの時代にまで及んでいます。ただ、ブルックナーはずっと宗教的で、リストにもそうした面があります。リストはピアノの名手ではありま したが、お金や権力からはっきりと距離をとった、文学・宗教・音楽を一身に兼ねそなえた、いわば「音楽の修道僧」です。もっとも、世の中から身を引くにつれ周囲の関心はますます高くなっていったわけですが。他の作曲家たちに多大な影響を与えました。交響曲《イタリアのハロルド》の最後について、「ハロルドは我を忘れ、ここで自然と一体化したいと願う」とリストがコメントしていますが、そのとおり。ちょうど《ファウストの劫罰》で、ファウストが最後に地獄に堕ちるようにハロルドは次第に声を発さなくなり、声は最後に、たち消えてゆきます。ベルリオーズはリストに感化されていたのか、同時代の作曲家たちが共有していたものか実に興味深い。
- 1803年
- フランス南部で生まれる
- 1821年
- パリで医学生となる
- 1822年
- パリ音楽院に出席
- 1825年
- サン・ロッシュ教会でコンサートを開く
- 1830年
- ローマ大賞受賞
- 1832年
- ハリエット・スミスソンと結婚
- 1854年
- マリー・レシオと結婚
- 1869年
- パリで死去
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