ピアノ協奏曲第1番 作品15から第1楽章の冒頭
Johannes Brahms/Konzert für Klavier und Orchester Nr. 1 d-Moll op. 15
先週のピアノ祭り。三舩優子さんと三浦友理枝さんの連弾、素敵でした。スタジオに二台ピアノが入るのかな、と聞いていましたが連弾だったのですね。4手のための連弾曲、二台ピアノのための演奏に興味を持っていろいろと CD を求めたり、演奏会に通って夢中になった時期が有りました。
シプリアン・カツァリスのベートーヴェンは多重録音のようですごいものでしたね。リストの編曲はオーケストラ曲をピアノ用に直したタイプではなくてオーケストレーションの面白さまで盛り込んでいるのに気がつくと、このカテゴリーの音楽に魅了されます。それを上回るカツァリスの加筆にはリストもびっくりポンや、でしょう。
『惑星』の連弾版もあるし、チャイコフスキーは『悲愴交響曲』をオーケストレーションとピアノ編曲を同時進行して作曲しています。それだけ慣習的な行為だったのですね。ブラームスもすべての交響曲をピアノ連弾版を残しています。と、前置きが長くなりましたが、第155回のきらクラDONは、ブラームス作曲「
ピアノ協奏曲第1番ニ短調 作品15」から第1楽章の冒頭ですね。この曲も、、、と思いますが、どうも、この曲は『2台ピアノのためのソナタ』として作曲に着手した曲だったようです。
それが『ピアノ協奏曲』に発展したのは、、、当初はブラームス最初の『交響曲』を目指しましたのですが、密かに思いを寄せていたクララ・シューマンを励ますために一念発起したようです。初演当時まだ25歳という若さもあってか、冒険的な要素も多い曲で初期の短調による室内楽曲と同じように、懊悩と煩悶、激情といった、後年のブラームス作品には見られない表情が顕著です。ことこの曲については作曲時期にブラームスが内面の危機を抱えていた事が大きい。
作曲中の1856年7月29日に恩人、ロベルト・シューマンが他界。1854年3月に3楽章構成の『2台のピアノのためのソナタ』として書き上げられ、1854年の7月には交響曲に書き直そうと考えてオーケストレーションに取りかかったが、遅々として進まないまま。1855年2月に協奏曲にしたらとひらめいても感性に程遠かったのに急展開、クララによれば第1楽章は1856年10月1日に完成、そしてブラームスの私信によればフィナーレは12月、そして新たに書き出した第2楽章は1857年1月に完成している。すごい気魄だ。クララ・シューマンや親友のヨーゼフ・ヨアヒムのアドバイスも相俟ってレパートリーの多いカラヤンでさえ録音を残していないくらいに演奏が難しいほどだ。
ピアノは楽器の王様、ピアニストは一人オーケストラと言われるように、ピアノは一台で奏でるオーケストラ。そのピアノを4手で連弾することや、二台ピアノで合わせることが60人から80人の意志が集中してつくるオーケストラサウンドとは異なる収束力を聴かせるのが面白いところ。このカテゴリーの音楽は、身体中の神経が集中しているヘソのようだというのは極論でしょうか。
今年は暖冬という予報で、寒暖が極端です。風邪ひきに気をつけましょう。
ドイツ・ロマン主義の大作曲家の一人。ハンブルクの町の楽団でコントラバス奏者をしていた父親から音楽の手ほどきを受けたが、マルクスゼンにピアノと作曲を学び長足の進歩を遂げた。ヴァイオリニストのヨアヒムと知り合い、その紹介でシューマンを訪れて、その才能を見出された。以後シューマン夫妻と親交を重ね、シューマンの発狂後はクララに救いの手を差し伸べ、その美しい友愛は死ぬまで続いた。彼の内省的な音楽を考えるとき、クララの影響を見逃すことは出来ない。29歳からはウィーンに定住。途中、短期間、何度か指揮者としての活動を行ったが、作曲に専念して余生を送った。
彼の本領は室内楽にあると言えるが、中期以後に4つの交響曲を発表して「ベートーヴェンにつぐ」交響曲作家と評された。また、歌曲作家としても一流であった。彼の作風は厳格な形式のうちにロマン的な内容の新しい技法を盛り込んだ点に特色があり、「新古典主義」ともいわれる。代表作は「ピアノ協奏曲第2番」、「ヴァイオリン協奏曲」、「大学祝典序曲」、「ハンガリー舞曲」、「クラリネット五重奏曲」、3つの「ヴァイオリン・ソナタ」、「ドイツ鎮魂曲」など。