名曲名盤縁起 素晴らしいメロディが散りばめられた隠れた名作 ブルッフ〜ヴァイオリン協奏曲第1番より第3楽章

武者がえし

2018年04月24日 16:00

ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番初演 ― 1866年4月24日

“3大ヴァイオリン協奏曲”というのがある。ベートーヴェン、メンデルスゾーンに、ブラームスかチャイコフスキーの、何れかが挙げられる。 ― 3曲目が難しいので、“4大”にすると激論にならない。しかし、ほかにもヴァイオリン協奏曲には名作が数多い。
“10大”となれば必ず入選するのが、ドイツの作曲家マックス・ブルッフの代表作、ヴァイオリン協奏曲第1番だ。
 1866年の今日、ドイツのコブレンツで初演され、「メンデルスゾーン以後の最高傑作」と評判になった。当時はまだ、後に“4大”となるブラームスとチャイコフスキーの作品が初演されていなかったので、このブルッフの協奏曲が人気を集めたのは当然だったろう。
 その第3楽章アレグロ・エネルジコ(速く、精力的に)は楽しげに踊るような第1主題と、魅惑的な歌による第2主題によるソナタ形式で書かれていて、ヴァイオリニストが技と歌心を思う存分発揮できる。ロマンティックな名曲だ。

Max Christian Friedrich Bruch

民族音楽への興味 ― 歌というものに対して不親切な時代における、ひとつの光明だ。旋律を歌うのに向いていないピアノにはさほど興味を持てない。

(1838.1.6 〜 1920.10.2、ドイツ)
 メンデルスゾーンの影響を感じさせるロマンティックで美しい「ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調」やチェロと管絃楽のための変奏曲「コル・ニドライ」が、ブルッフの代表作として知られているが、交響曲の作曲家としても知られ、生前は合唱曲作家としても名高かった。ブルッフの作品はアカデミックな和声と、厳格な対位法で貫かれており、極めて甘美で夢幻的な旋律が、著しい特長をなしている。その代表的作品として、ヴァイオリン、ハープと管絃楽のための「スコットランド幻想曲」が挙げられよう。14歳の時の作品を含めた3曲の交響曲をはじめ、3曲の歌劇、3曲のヴァイオリン協奏曲、室内楽、ピアノ曲などの創作のほかに、指揮者、教授としても活躍し、ケンブリッジ大学からは哲学博士の名誉称号も受けている。

旋律は音楽の魂である。

 マックス・ブルッフは、19世紀後半のドイツ音楽史においてもっとも注目される存在であるにもかかわらず、《ヴァイオリン協奏曲第1番》他のいくつかの作品を除くと、彼の創作の全体像はほとんど研究されていない。ブルッフは、シューマンをデュッセルドルフに招いたことで知られるフェルディナント・ヒラーと、ライプツィヒ音楽院で作曲の主任教授として長きにわたって君臨したカール・ライネッケに師事し、1865年にコブレンツの音楽監督、1867年、29歳にしてゾンダースハウゼンの宮廷楽長に就任した作曲家で、交響曲や協奏曲、室内楽などとくに器楽作品の分野で極めて完成度の高い作品を残した。現在では、《ヴァイオリン協奏曲第1番》や《スコットランド幻想曲》の作曲者としてその名前が知られているが、彼の創作を全貌する詳細な作品目録は作成されておらず、その真価が現在においても厳密に評価されているとは言えない。
 ブルッフの作品の歴史的な影響力を示すのが3曲の交響曲である。その《第1番変ホ長調》が初演されたのは1868年で、1870年に刊行した折にこれをブラームスに献呈した。このブルッフの交響曲は、シューマンの《交響曲第3番》とブラームスの《交響曲第1番》との間をつなぐ重要な意味をもつ作品として高く評価される。
 ブラームスにとってブルッフはもっとも注目した作曲家であったに相違ない。それをよく示すのがブルッフの《ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調》と、ブラームスの《ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77》との関連で、二つの協奏曲の第3楽章の動機の類似性はしばしば指摘される。ブルッフは上記の《第1番》のほかに、1877年に作曲・初演され、サラサーテに献呈された《第2番 作品44》、そして1891年に作曲された《第3番 作品58》の3曲のヴァイオリン協奏曲を残しているが、今日演奏されるのはもっぱら《第1番》のみである。

鑑賞のポイント

《ヴァイオリン協奏曲第1番》が作曲されたのはブルッフがコブレンツの音楽監督時代(1865~1867年)で、クララ・シューマンを通してヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムを紹介されたことが契機になっている。第3楽章が、ハンガリー風の表現を取り入れているのはヨアヒムへの敬意の表現と考えられる。この協奏曲の第1稿は1866年4月24日にオットー・フォン・ケーニヒ・スロウの独奏で初演された。この作品に対し指揮者のヘルマン・レヴィは批判的な見解を表明しており、ブルッフは作品の改訂に取り組む。レヴィは当時、もっとも声望のある指揮者で、ブルッフはレヴィの判断を重視していた。
 改訂に際してのもっとも重要な助言者は上記のヨアヒムで、彼はメンデルスゾーンの《ヴァイオリン協奏曲 ホ短調》にならって、第1楽章と第2楽章を連続させることを提案し、さらにヴァイオリンの表現にふさわしいフレージングや表現などについても助言した。ブルッフはこの作品に「幻想曲」という標題を与えることを予定していたが、「協奏曲」という名称を勧めたのもヨアヒムである。改訂稿が完成すると1867年12月4日、ブルッフはレヴィに改訂の報告を行い、1868年1月7日にカール・ラインターラーの指揮、ヨアヒムの独奏でブレーメンにて初演された。
 この《ヴァイオリン協奏曲》は1868年7月26日に初演された彼の《交響曲第1番》とも密接な結びつき持っている。改訂稿の初演後、ブルッフはレヴィへの書簡のなかで次に交響曲の創作に取り組むことと、「交響曲では、協奏曲においては見られないか、置かれる必要のないあらゆる楽曲の展開をご覧になることでしょう」と述べる。このことからブルッフは協奏曲と交響曲の相違を展開部の創作に見ていたことが分かる。

第1楽章はティンパニの静かな響きで始まり、木管の後に続いて独奏ヴァイオリンのカデンツァが披露される。この導入部の後、第1主題が劇的に鳴り響き、ドラマティックな様相を呈する。第2主題は愁いのある優美な旋律で、この2つの主題の対比が音楽的な起伏と奥行きを生み出し、聴き手をロマンティックな気分へと誘う。やがて導入部に回帰し、力強いトゥッティが放たれると、にわかに穏やかな雰囲気に覆われて、切れ目なしに次の楽章へと続く。
第2楽章は甘美な旋律と和音が広がるアダージョ。甘美といっても俗っぽさは皆無で、むしろ崇高で瞑想的である。周到に編み込まれた旋律は徐々に熱量を増し、やがてクライマックスを形成する。最終楽章はアレグロ。民族音楽のような趣のある第1主題が彫り刻むように繰り返し奏でられ、異なる性格の第2主題が音楽的地平を広げる。このやりとりが2度行われた後、第1主題が弾みをつけて躍動し、コーダに入る。

ブルッフの作品を第一に特徴づけているのはその旋律性である。ブルッフは魅力的な旋律を生み出すことに長けており、それはほぼ全ての作品を覆い、親しみやすいものにしている。
 保守派のイメージがあるブルッフだが、主題の扱い方や全体の構成をみても、天才らしく既成の枠から逸脱していることが分かる。両端楽章の盛り上がりも十分だが、作品全体の山場はアダージョにある。これはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の構成にヒントを得て巧みに応用したものとみてよいだろう。最終楽章の主題はどことなくブラームスのヴァイオリン協奏曲の旋律を思わせるが、作曲したのはブルッフの方が先である。助言者が同じヨアヒムだったことが影響しているのだろうか。ブルッフにしてみればあまり面白くなかったのではないかと推察する。
語法の一貫性も特筆される。ブルッフの音楽的理想はその活動の最初期に確立され、20世紀に入り第一次世界大戦を経験する最晩年までその態度を変化させることはなかった。彼はロマン派音楽の中でも古典的な理想を掲げており、フェリックス・メンデルスゾーンやロベルト・シューマン、友人でありライバルでもあったヨハネス・ブラームスへの尊敬は終生変わることがなかった。それに対しフランツ・リストやリヒャルト・ワーグナーら「新ドイツ楽派」へは明らかな敵意を持っていた。
 ブルッフは1838年1月6日にケルンに生まれたドイツの作曲家である。ソプラノ歌手だった母ヴィルヘルミーネの手引きで音楽に開眼し、9歳の時に歌曲、11歳の時に序曲「オルレアンの少女」と七重奏曲を作曲した。早熟の天才である。1852年から、作曲の腕に磨きをかけ、1858年には初のオペラ『戯れと悪知恵と復讐』を発表。その後、マンハイムに滞在し、カンタータ『フリトヨフ』やオペラ『ローレライ』を作曲した。1873年からボンに移って作曲に専念し、1880年に歌手のクララと結婚。4人の子供に恵まれた。1891年からはベルリン・アカデミーで作曲のマスタークラスを受け持ち、1911年に退官。1910年には山田耕筰がブルッフ教授を訪ね、作品を見てもらっている。その証言によると、ブルッフは穏やかで優しい人柄だったようだ。退官後も作曲を続け、1913年にはベルリン王立芸術アカデミーの名誉会員になったが、同じ頃、子供を失う悲劇に見舞われた。亡くなったのは1920年10月2日のことである。

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