知識よりも情緒が音楽を響かせて、全体よりも細部が音楽をつくる。楽員はその指揮に従えば、奇跡を体験できた。
《独エレクトローラ最初期プレス, 220gフラット重量盤》DE ELECTROLA E90 097 フルトヴェングラー/ウィーン・フィル ワーグナー・ローエングリン/タンホイザー/リスト・前奏曲 WAGNER "Lohengrin"1.Akt/Ouverture zu "Tannhauser"/LISZT Les Preludes
フルトヴェングラーのワーグナー・ローエングリン(前奏曲)は大変美しい。出だしの弦楽器だけの音色は透明感があり、表現は神々しさに溢れています。また『タンホイザー』序曲では弦楽器の細かな動きの驚くべき雄弁なニュアンス、ウィーン・フィルの繊細な名人芸にうならされます。そして、リストの交響詩「前奏曲」は、これを最初に聞いてしまうと、以降どの演奏をきいても貧弱にしか聞こえなかったほどに素晴らしい演奏である。音も明瞭でフルトヴェングラーの録音のなかでも最も音の良いものの一つとしても高い評価を得ています。
厳粛な精神性ではなく大衆的表現を押し出した、個性が魅力。ウィーン・フィルのメンバーもオペラを理解していたし、フルトヴェングラーの伝えんとすることは心得たものだったのだ。伝え方がフルトヴェングラーは演奏会場の聴衆であり、ラジオ放送の向こうにある聴き手や、レコードを通して聴かせることを念頭に置いたカラヤンとの違いでしょう。
先輩格のニキッシュから習得したという指揮棒の動きによっていかにオーケストラの響きや音色が変わるかという明確な確信の元、自分の理想の響きをオーケストラから引き出すことに成功して云ったフルトヴェングラーは、次第にそのデモーニッシュな表現が聴衆を圧倒する。当然、彼の指揮する管弦楽曲は勿論のこと、オペラや協奏曲もあたかも一大交響曲の様であることや、テンポが大きく変動することを疑問に思う聴衆もいたが、所詮、こうした指揮法はフルトヴェングラーの長所、特徴の裏返しみたいなもので一般的な凡庸指揮者とカテゴリーを異にするフルトヴェングラーのキャラクターとして不動のものとなっいる。
曲が進むに連れ次第にドラマの深淵へと引きずり込まれてゆく。求心力がある演奏で、序曲だけで名作オペラの真髄を知る事ができるくらいです。演奏も全く機械的ではない指揮振りからも推測されるように、楽曲のテンポの緩急が他の指揮者に比べて非常に多いと感じます。しかし移り変わりがスムーズなため我々聴き手は否応なくその音楽の波に揺さぶられてしまうのです。
1954年3月3日-4日(交響詩『前奏曲』)、1952年12月3日、(『タンホイザー』序曲)、1954年3月4日(『ローエングリン』第1幕への前奏曲)ウィーン、ムジークフェラインザール録音。名演、名盤。
年代を考えると音の鮮度は驚異的に高いレヴェルです。
ドイツ最初期エレクトローラ・フラット盤、特に220g以上重量盤は、既に所有されている方はお判りでしょうが、製造工程で付着した凹凸で名演にもかかわらずレコードプレーヤーに載せても「針飛び」生ずる盤多く閉口したものですが、幸い本盤は最初期フラット盤ですがこうした瑕疵事項は無い盤です。半世紀前盤としては既に骨董品の域に入っています。
フルトヴェングラーはブラームスを評して「非常に客観的な音楽家」といい、「音楽における客観とは、音楽と精神、精神と音楽が結び付いてひとつになった時に起こるのである」といっています。この偉大な指揮者はブラームスの音楽は彼の哲学そのものであると喝破したのです。それは、そのままベートーヴェンにも当てはまり。それがドイツの交響曲に対する彼の表現方法なのだろう。
フルトヴェングラーの音楽を讃えて、「音楽の二元論についての非常に明確な観念が彼にはあった。感情的な関与を抑制しなくても、構造をあきらかにしてみせることができた。彼の演奏は、明晰とはなにか硬直したことであるはずだと思っている人がきくと、はじめは明晰に造形されていないように感じる。推移の達人であるフルトヴェングラーは逆に、弦の主題をそれとわからぬぐらい遅らせて強調するとか、すべてが展開を経験したのだから、再現部は提示部とまったく変えて形造るというような、だれもしないことをする。彼の演奏には全体の関連から断ち切られた部分はなく、すべてが有機的に感じられる。」とバレンボイムの言葉を確信しました。これが没後半世紀を経て今尚、エンスーなファンが存在する所以でしょう。