「クラシック音楽専科ガイド」
オリジナル稀少盤、アナログ・レコード優秀録音盤のアナログサウンド!
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1960年代、70年代、80年代までのクラシック音楽のアナログLPレコードの、欧米で発売された当時の『オリジナル盤』初版盤、レアなレコードぞろい。優秀録音と評価の高い録音をメインにコンディションの良いものを案内しています。
2020年03月01日
名曲名盤縁起 黒鍵だけでも素晴らしいショパンのメロディー◉ショパン〜《12の練習曲》より第5番《黒鍵》
“ピアノの詩人”ショパン生まれる ― 1810年3月1日
2月26日午前1時28分ころ、東北地方で強い地震があった。震源地は福島県沖で、震源の深さは約40km、地震の規模(マグニチュード)は5.7と推定され国見町、いわき市などで震度4を観測した。ツイッターでは「3.11」も忘れそうになってる、と見かけましたが大騒動はなかった模様ですね。ただ、その後も震度2、震度1が今日まで繰り返して起こっている。その翌日、穏やかな午後の陽気に、どこかしか大津波が襲った時のお日和を思い出していた。
熊本県の阿蘇火山防災会議協議会は、火山活動の活発化や噴火による復旧作業のため2014年8月30日から続いていた阿蘇中岳火口の立入規制を、2月28日に解除すると発表した。3年半ぶりに阿蘇中岳火口見学を再開出来る。地震のニュースを見たあとで、気になった。朝からセスナやヘリが周辺を舐めますように飛んでいたのは、事前の観測だったのかしら。
当日は霧が深く、初日の見学は中止された。2月最後の、昨日は春の嵐。夕食の買い物に出るとき、雨がふりだしたので急いで傘を持ってでかけたが、お店に着く直前、いきなりの強い風でバッチョ傘になってしまった。「丈夫な傘を持って出るか、カッパで出かけるのがいいですよ。」と夕方のローカル番組のお天気コーナーの伝えたとおりだった。
諸君、脱帽したまえ、天才だ! ― ロベルト・シューマン

ショパンが書いた音楽の大半はピアノ曲であった。人間の感情のすべてを表した多彩な音楽は、優美な女性らしさがもてはやされるが、素顔の彼は男性的気概を持った情熱の人だった。20歳前後に書かれた作品番号10の《12の練習曲》(有名な「別れの曲」や「革命のエチュード」が含まれる)は、極めて芸術性の高い代表作。右手が黒鍵だけを弾くことで「黒鍵のエチュード」と呼ばれている痛快な第5番には、反骨の男ぶりが面目躍如としている。
練習曲( Etude )作品10-5「黒鍵」
これらの作品は練習曲という名ではあるが、ツェルニーなどの練習曲とは大きく趣が異なる。ピアニストのための練習曲と言っても過言ではなく、単なる練習曲の域を超え、その独創性や芸術性は突出している。出版された当初から練習曲としての賛否はあったということである。それぞれの作品の作曲年度は正確には分からず、どうやら、故郷ワルシャワにいた頃から作品10は書き始められ、作品25も作品10の終わりごろには平行して作曲されていたようである。この作品は文字通り、黒鍵の練習のための曲である。右手は黒鍵ばかりを弾くため、多くのピアニストがその超絶技巧を示すために弾いてきたが、この作品も他の練習曲同様きらびやかで単なる練習曲の域を超えた作品であると言えよう。
クラシック音楽の歴史の文脈にショパンが居ない事も成り立つほど、音楽史上特異な存在。
Frédéric François Chopin(1810.3.1 〜 1849.10.17、ポーランド)

代表作は、2曲の『ピアノ協奏曲』、『ワルツ集』、『前奏曲集』、『練習曲集』、『ポロネーズ集』、『マズルカ集』、『スケルツォ』、『バラード』など。
ピアノの詩人と呼ばれるショパンは、その名の通りほとんどピアノ音楽しか残さなかった。ロマン派の代表の1人であり、現在最も愛されている作曲家の1人でもある。
そのショパンの音楽を語るときに、避けては通れないのがサロンでの活動がある。ショパンの生きた時代、音楽家はサロンと呼ばれる、世に出ることの出来ない金持ちの女性が主に開く集まりの中で自分を売り込み、自分の後ろ盾になってもらう、というのが1つの生き方であった。そういうサロンの寵児となりショパンは、上流階級の中で愛され続けた。ショパンがサロンで生きられた理由の1つは、彼の風貌や立ち振る舞いであり、それが上流階級の女性の人気の的となった。ワルシャワ時代にショパン一家は宮殿の庭園に住んでいたこと、ワルシャワ音楽院が宮殿内にあったことも大きいだろうし、尤もポーランドの精神、習慣、言葉はショパンの家庭に浸み込んでもいた。
また、彼は体も手もそれほど大きくなく病気がちでもあったため、大きな音でピアノを弾くことが出来ず、リストやその他の作曲家兼ピアニストのようにコンサートホールには向いていなかった。それゆえ、逆にピアニッシモを際立たせ、華麗で甘い音色のピアノを弾いた。これがちょうどサロンに向いていたのである。
華やかなサロンでの生活とは逆に、ショパンは祖国ポーランドの状況にいつも悩まされ、また自身の病気にも悩まされながらこの世を去った悲運の音楽家でもあった。彼が死んだ後心臓だけが祖国ポーランドに運ばれ、いまもそこに眠るという。
そのショパンの音楽を語るときに、避けては通れないのがサロンでの活動がある。ショパンの生きた時代、音楽家はサロンと呼ばれる、世に出ることの出来ない金持ちの女性が主に開く集まりの中で自分を売り込み、自分の後ろ盾になってもらう、というのが1つの生き方であった。そういうサロンの寵児となりショパンは、上流階級の中で愛され続けた。ショパンがサロンで生きられた理由の1つは、彼の風貌や立ち振る舞いであり、それが上流階級の女性の人気の的となった。ワルシャワ時代にショパン一家は宮殿の庭園に住んでいたこと、ワルシャワ音楽院が宮殿内にあったことも大きいだろうし、尤もポーランドの精神、習慣、言葉はショパンの家庭に浸み込んでもいた。
また、彼は体も手もそれほど大きくなく病気がちでもあったため、大きな音でピアノを弾くことが出来ず、リストやその他の作曲家兼ピアニストのようにコンサートホールには向いていなかった。それゆえ、逆にピアニッシモを際立たせ、華麗で甘い音色のピアノを弾いた。これがちょうどサロンに向いていたのである。
華やかなサロンでの生活とは逆に、ショパンは祖国ポーランドの状況にいつも悩まされ、また自身の病気にも悩まされながらこの世を去った悲運の音楽家でもあった。彼が死んだ後心臓だけが祖国ポーランドに運ばれ、いまもそこに眠るという。
フレデリック・ショパン 略歴
- 1810年
- ポーランドのワルシャワ郊外に生まれる
- 1814年
- ピアノレッスンを受け始める
- 1825年
- 初めての出版(ロンド・ハ短調)
- 1826年
- ワルシャワ音楽院に入学
- 1830年
- ワルシャワで「ピアノ協奏曲1番・2番」を発表する
- 1831年
- パリに移る
- 1836年
- マリア・ヴォジンスキに求婚、ジョルジュ・サンドと出会う
- 1837年
- マリア・ヴォジンスキとの恋が破局に終わる
- 1838年
- ジョルジュ・サンドとマジョルカ島へ旅行、病状の悪化
- 1847年
- ジョルジュ・サンドと破局
- 1848年
- パリで最後の演奏会
- 1849年
- マズルカを1曲書き、他界
.
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